Sunday Sermon

主日説教

主日礼拝で語られた説教の概要を通して、 聖書の言葉とその日のメッセージを お届けします。

2026年8月9日 主日礼拝 説教者:金 鍾圭牧師

知恵ある者として歩む

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙5章11〜20節

パウロは、「知恵のない者ではなく、知恵ある者として歩みなさい」と勧めている。ここでいう知恵とは、知識の多さや頭の良さではなく、この時代の中で何が主の御心であるかを問い、ふさわしく生きる力である。悪い時代だからこそ、愛し、支え、共に歩む機会を逃してはならない。

私たちは、成功や効率、数字に心を奪われるのではなく、聖霊に満たされ、一人ひとりの命を大切にする共同体へと招かれている。世の価値基準に流されるのではなく、キリストの光を生きることによって闇を照らし、互いに支え合い、感謝しながら歩むこと。それこそが「知恵ある者として歩む」生き方ではないだろうか。

キリストの御言葉に耳を傾け、キリストが示された生き方に倣い、この世において「知恵ある」キリスト者として歩んでいきたい。

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これまでの主日説教

説教者:仲程愛美牧師

線を飛び越えて

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章14〜22節  戦後81年の夏が来た。戦争が歴史的な出来事になるには十分な時間だ。だからこそ平和を思い巡らす大切さを想う。平和と戦争を対比させる考えは「争いがない」=「平和」という認識が下地にある。平和学の父ガルトゥングが提唱した消極的平和と積極的平和から見えてくるのは、平和とは「状態」を指すものではなく作り続けていくもの、ということだ。「平和を実現する人々は幸いである」というイエスの言葉が浮かぶ。  エフェソ教会で課題となっていたのは隔ての壁にぶつかっていた人々のことだった。ユダヤ人にとって異邦人は境界線を引くべきとの考えをパウロはキリストの存在をもって否定する。我々の平和は主イエスなしにはあり得ない。それは「二つのものを一つに」する方の力と助けが必要だということだ。平和の主を知る者だからこそ、線を飛び越え、和解と共生を体現していきたい。
説教者:金 鍾圭牧師

互いに認め合う

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一12章14〜26節  コリントの教会には、富裕者が人々を庇護し、そのつながりによって名誉や地位を競うパトロネージュの価値観が入り込んでいた。そのため、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」…と争い、聖餐の場では貧しい者が顧みられず、賜物や働きの違いをめぐって互いを軽んじるようになっていた。  これらの問題は、それぞれ別のものではなく、互いを尊び、共に生きようとする愛の欠如から生じていたのである。違いそのものが分裂を生んだのではなく、違いを受け入れ、互いに仕えようとする心を失っていたことが問題であった。  しかし、教会は多くの部分から成る一つの体である。異なる者を退けるのではなく、互いを必要な存在として認め合い、一人の痛みを皆の痛みとし、一人の喜びを皆の喜びとする。そこに、キリストが示された愛の道がある。
説教者:仲程愛美牧師

最高のパラドックス

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二6章1〜10節  キリスト教のシンボルである十字架が、刑道具であったことは言うまでもない。初期キリスト者たちはそれを承知で、ここにこそ救いを見出した。救いの象徴として「主の十字架」を捉えた人々は、自分自身が変えられた体験を持つ。価値観の逆転を起こすのが十字架だった。生き方の転換が起こった者たちがキリスト者だった。  我々はどうだろう。「神に仕える者としてその実を示す」ことは容易ではないにせよ、この手紙が綴られた時代と現状は異なる。激しい迫害もない。信教の自由が”一応”保障されている。だが、根幹において「キリスト者」としての歩みは矛盾を抱えることが度々ある。それがイエスの救いの中身であることに注視したい。